伊勢物語 - 009

 むかし、をとこありけり。そのをとこ、身をえうなき物に思ひなして、「京にはあらじ。あづまの方にすむべきくにもとめに」とて、ゆきけり。もとより友とする人、ひとりふたりしていきけり。みちしれる人もなくて、まどひいきけり。  みかはのくに、やつはしといふ所にいたりぬ。そこをやつはしといひけるは、水ゆく河のくもでなれば、はしをやつわたせるによりてなむ、やつはしといひける。そのさはのほとりの木のかげにおりゐて、かれいひくひけり。そのさはに、かきつばたいとおもしろくさきたり。それを見て、ある人のいはく、「かきつばたといふいつもじをくのかみにすゑて、たびの心をよめ」といひければ、よめる。
  から衣きつつなれにしつましあれば
   はるばるきぬるたびをしぞ思ふ
とよめりければ、みな人、かれいひのうへになみだおとしてほとびにけり。  ゆきゆきて、するがのくににいたりぬ。うつの山にいたりて、わがいらむとするみちは、いとくらうほそきに、つた、かへではしげり、物心ぼそく、すずろなるめを見ることと思ふに、す行者あひたり。「かかるみちは、いかでかいまする」といふを見れば、見しひとなりけり。「京に、その人の御もとに」とて、ふみかきてつく。
  するがなるうつの山べのうつつにも
   ゆめにも人にあはぬなりけり
 ふじの山を見れば、さ月のつごもりに、雪いとしろうふれり。
  時しらぬ山はふじのねいつとてか
   かのこまだらにゆきのふるらむ
その山は、ここにたとへば、ひえの山をはたちばかりかさねあげたらんほどして、なりはしほじりのやうになんありける。  猶ゆきゆきて、武蔵のくにとしもつふさのくにとの中に、いとおほきなる河あり。それをすみだ河といふ。その河のほとりにむれゐて、おもひやれば、「かぎりなくとほくもきにけるかな」とわびあへるに、わたしもり、「はやふねにのれ。日もくれぬ」といふに、のりてわたらんとするに、みな人、物わびしくて、京に思ふ人なきにしもあらず。さるをりしも、しろきとりの、はしとあしとあかき、しぎのおほきさなる、みづのうへにあそびつつ、いををくふ。京には見えぬとりなれば、みな人、見しらず。わたしもりにとひければ、「これなん宮こどり」といふを、きゝて、
  名にしおはばいざ事とはむ宮こ鳥
   わがおもふ人はありやなしやと
とよめりければ、舟こぞりてなきにけり。

伊勢物語 - 010